今回の記事はちょっと長くなりますが、ご勘弁くださいね。

以前、神療法乃私的思考ノート で4.1. 真理 ということについて少し書きましたが、今回はその続きを書きます。前回の記事をご覧になっていない方のためにその要約を含めて書いていきます。

人間がこの現実界に生まれてきたのは何のためですか?  

いきなりの質問ですが、まずはこれについて考えてみましょう。

生きていく手段のために人は働き金銭を得、家族を作り、立派な家に暮らし、高級車を所有し幸せな暮らしをすることでしょうか?

もし、これが真理であるとすれば人間はあまりにも空しい存在であると言わざるおえないです。結局、モノに支配され五欲に惑わされ生きなければならなくなってしまうのです。これでは人間の価値は下がってしまいます。

人間が人間であるためには・・・。
真理は霊性を高めること以外にないのです。

霊性をたかめることこそ私たち人間がこの現実界に存在する唯一の理由です。  
その霊性を高める一つの仕組みが宗教であるとするならば、キリスト教・イスラム教・仏教などという宗教に依存することになってしまいます。何にも依存せずに 自身の霊性を高めることこそが 人それぞれの課題 でもあるのです。 









天台・親鸞・弘法大師なども結局のところ自身の霊性を高めるために様々な論を説きましたが、結局のところ 「内なる神(仏)」 に帰着するのです。それが大衆から観たときには「教えを学べば幸せになれる」と錯覚することこそが誤りなのです。









「依存」こそが執着です。昨日の記事にもかきましたが、




多くの人は「概念感覚」以上のことは感覚として認識することがでません。 それ故、霊視感覚・霊聴感覚・霊的合一感覚を本来は持っているのにそれを使っていないのです。

そのため、「概念感覚」までの範囲でしかものを見ることができないのです。つまり、 自分自身で感覚能力を制限 しているのです。

その 制限される原因の多くは 迷いや執着が意識に働いている のです。

この迷いや執着こそが霊性を高めることを邪魔しているのです。


私は特定の宗教を信仰しているわけではないですが、仏教を学び般若心経や法華経を読経したりすることはありました。そして仏教の知識を深めてきました。さらには子供の頃はキリスト教にも縁をしたことがあります。このように様々な考え方を学んできた中で言えることは、仏教、キリスト教、イスラム教、ヒンズー教などあらゆる宗教は人が作った「システム」であること。(宗教を批判しているわけではないので・・・。)

宗教を作った本人が「」を求めた結果が宗教なのです。

例えば、親鸞や天台にしても自分自身の迷いを断ち切るためにさまざまな論を説いて、結局のところ「内なる神(仏)」に帰着したわけです。それを他の人々に当てはめてもその骨子となる基本的な考え方の部分のみであって、人それぞれその「真理」は異なるのです。

それ故、一人一人を幸せに導くための真理とは異なるのです。




大筋となる骨格は当てはまりますが、自分自身の個人の生き方や使命・役割を求め、さらには個人の幸せを求めることを宗教に求めるのは違います。

これはある意味危険なことでさえあります。




私は長年3つの疑問をずーっと持ち続けてきました。10歳頃から持ち続けてきたその疑問は以下の3つです。




・「自分は何者なんだろう?」

・「この世に生まれた理由はなんだろうか?」

・「幸せとは何?」

この3つの疑問は人それぞれ異なるのです。




この3つの疑問を解決できたときこそ何にも縛られない本当の自由を手に入れることが可能になるのです。それを宗教や他のものに求めてはいけないのです。何故、それがいけないのかを以下に書きます。

何らかの宗教を熱心にされてきた方、というより盲目的に信仰してきた方が亡くなった場合、人の「生や死」に対する拘りがあることからお亡くなりになっても彷徨い続けることが多いのです。

それは「」に対する誤った認識が元になっており、

「生」よりも「死」で苦しむ結果を自分自身で招いてしまっているからです。

これは生前に信仰して積み上げてきたものが邪魔して霊界に辿り着けない状態なんです。どういうことかと言うと宗教の固定観念が働いているために苦しむ結果を生んでいるのです。

だからこそ、自分自身の現世での使命や役割を知ることが大切なのです。




まだ私も旅の途中です。

使命と役割に気付きましたが、最後の疑問は難問ですね。

これも人それぞれ異なります。

自分自身が何者なのか?

そして、現世での課題は何なのか?

これに気がついた時、

あなたは大きく羽ばたくことができるようになるのです。

そして、そのときに今まで埋もれていた能力が開花するのです。