【日本独特の死生観】仏教伝来以後(室町〜江戸初期)
1 室町時代・安土桃山時代
室町時代は、1333年から始まり室町幕府が滅びる 1573年までの267年間。
初期(南北朝時代) | 1333〜1393年(60年) | 皇室が2つに分離 |
中期(北山文化時代) | 1393〜1467年(74年) | 安定期 |
後期 Ⅰ(戦国時代) | 1467〜1573年(106年) | 応仁の乱勃発 |
後期 Ⅱ(安土桃山時代) | 1573〜1603年(30年) | 室町幕府滅びる |
室町幕府が滅びるまでの 267年間 は社会情勢が不安定だったり、内乱が11年もの間続くなど混乱の時代であった。
この混乱の時代だからこそ、多くの書物が執筆されている(Wikipedia 室町時代の書物)。
1.1 平均寿命
日本人の平均寿命を時代ごとに見ると、 奈良時代や平安時代の平均寿命年齢がおよそ30歳 であったのに対して、鎌倉時代に入ると災害や疫病の影響により平均寿命年齢は24歳となる。
そして、 室町時代では平均寿命年齢は15歳 となり極端に寿命が短くなった。これは、 天候による食物の不作・一揆・戦国時代が長期に渡ったこと が大きな影響を及ぼしている。
社会実情データ図鑑
(グラフ:平均寿命の歴史的推移)より引用.
(室町時代の人口がおよそ1200万人〜1500万人).
1.2 災害
14世 紀はいわゆる南北朝時代を含む内戦の時期で,荘園は徐々に没落し農民は次第に封建的な支配を受けるに至つた。
14世紀には16個の災害が記録されている。
この期間には 水害の記録が干ばつより多くなっている が,記事の内容は非常に簡単で,災害の状況はほとんどわからない。これは恐らくこの時代が戦乱の時代であって, 災害を詳しく記録する余裕がなかつたためであろう。
15世紀はいわゆる室町時代と,これに先立つ時期であつて,九州では荘園的色彩がまだ残り,自営農民の成長がおくれていたが,農業経営は徐々に多角化,集約化を進めてきた。
15世紀には災害の記録が急に多くなり,34個に上つた が,記録もまたていねいになって,日付なども明らかに知られるようになつた。台風によると思われるものが12個で首位となり,干ばつがこれについでいる。1460年には異常冷夏の記録があり,1471,1476年には桜島の爆発があった。
日下部正雄,史料からみた西日本の農業気象災害 -(1)年代による災害の種類の変遷-,1959,『農業気象第15巻 第3号』.
1.3 室町時代の仏教
1.3.1 出来事
宗派 | 勢力 | 主な出来事 |
天台宗 | 禅宗と天台宗が対立 | 天文法華の乱 |
浄土宗 | 「五重相伝」の法を唱え組織化を図り宗門統一を図った | |
浄土真宗 | 講と呼ばれる組織を作る | 本願寺は急速に発展・拡大し一向宗と呼ばれる |
臨済宗 | 幕府の五山十刹の制により保護・管理された | 臨済宗は武家政権に支持された |
曹洞宗 | 中央の政治権力との結びつきを避ける | 地方豪族や一般民衆に支持された |
日蓮宗 | 京都に21ヶ寺建立→天文法乱 | 大阪の堺や京都を中心に民衆に支持 ・法華一揆・天文法乱・天文法華の乱 |
時宗 | 浄土真宗や曹洞宗の活動により侵食され・衰退した |
- 室町幕府は足利氏が帰依していた臨済宗を中心とした仏教政策を行い、足利義満は五山十刹の制により幕府の管理下に置かれ保護された。
- 仏教に影響され芸能や美術・建築・文学・茶道・華道など日本文化(北山文化・東山文化)へも影響を与えた。
- 曹洞宗は、地方の大名や庶民を教化し、永平寺と総持寺を両本山として強力な地盤を築いた。
1.3.2 仏教と戦
戦国時代になると、それまでにみられた神道・仏教(神仏習合)・ 禅といった宗教的背景に儒教の影響も含まれるようになる。宗教的背景にあらわれる変化としては、外来思想が従来の思想のうえに積み重なるという変化を遂げる。戦国時代においては、特に、天道思想が戦国武将の思想と結びつく。
髙瀬 武志,武士道思想における死生観に関する一考察 ──戦国期の天下人の神格化を中心に──,2017,『桐蔭論叢 第 37 号(2017 年 12 月)』.
1.3.2.1 天道思想
戦国時代には、「天道思想」として仏教・儒教に日本の神道が結合した統一思想になり、戦国武将に広がり、「天運」「天命」を司るものと認識された。歴史家神田千里はそれを進め、戦国時代後半に、天道思想を共通の枠組みとした「諸宗はひとつ」という日本をまとめる「一つの体系ある宗教」を構成して、大名も含めた武士層と広範な庶民の考えになり、日本人に深く浸透したとする。個人の内面と行動が超自然的な天道に観られ運命が左右され、その行いがひどければ滅びるという、一神教的な発想があり、日本人に一般的に広がっていた。キリスト教の宣教師からも、キリスト教に似たものだと受け止められ、布教のため神を「天道」と意訳同一化して仏教僧や武士、庶民と論議することで宣教しようとした。キリシタン大名もキリスト教の神を天道と表現した。
戦国武将は室町期まで厳然として確立されていた伝統的権威を天道思想による思想的正当性を背景として下剋上という行為をもって打破し、戦乱の終結と新しい武士社会の秩序を築こうとしたと考えられる。
髙瀬 武志,武士道思想における死生観に関する一考察 ──戦国期の天下人の神格化を中心に──,2017,『桐蔭論叢 第 37 号(2017 年 12 月)』.
1.3.2.2 禅宗の死生観
仏教伝来以降、神道思想と仏教思想がミックスされ、それが戦国時代に入るとより拍車がかかり天道思想が取り入れられ、それが深く浸透された。
鎌倉時代末期の 武士の集団自決 にみられる 死生観 である。
これ以上戦っても最早勝つ見込みがないと思えば武士は一挙に集団自決した。 それ以後,集団自決 はいわゆる「はらきり」という切腹自決へどつながる重要な歴史的事件となる。_
これは前世の因縁 によって宿命的に死ぬのではなく,仏教の教義に離反してみずからの運命は自らが決める,自分の 命は目に見えぬ存在によって決まるのではなく,自分自身が決めるのだ。
自分の意志によって自分 の生死を決定するというのである。
このようにして,仏教はインド仏教本来の思想を日本に土着し た神道信仰との混交(シンクレテイズム)をはたし,後に多くの仏教のセクトを誕生させた。
浄土 真宗(法然,親鸞),日蓮宗,曹洞宗・禅宗(道元)などの日本伝来の仏教のセクトの死生観は夫々 異なっている。
浄土真宗は「南無阿弥陀仏」と唱える ことによって, *死後は西方浄土に行き生まれ 変わる*というもの,
日蓮宗は同じく「南無妙法蓮華経」と唱える ことによって霊山浄土に行く。
呪 文と死者の行く先が異なるだけで本質的には同じ死生観 であると考えられる。
しかし, 道元 の考え る 禅宗の死生観は異なる。
この宗派は多くは武士の宗派で道元は 生と死の問題を明確にしてはいな い。
生と死は別のものであり,それから先は 禅の修業 をして 自分で考える という具合に突き放している。 宗教というよりは哲学の世界に最も近い。
丸山久美子, 死生観の心理学的考察, 2004,聖学院大学論叢.
丸山(2004)の禅宗に対する死生観については、禅により自己の精神や身体を鍛練することによって、
仏の境地に到達することが禅の目的であるが、これは、 個人の精神・肉体のありかたをより高次のレベルに高めるための鍛錬であり、霊性を高めることを目的にした性格 をもっているのではないかと考える。
禅の思想そのもが、個人の生き方、そのものを自問・自答するものであり、武将らの日々は、食べ物も満足に手に入らない戦国の世に於いて、将来の夢や希望などはなく、ただひたすら「今日を生きる」
ために、「より強くなる」ためだけの鍛錬であったのではないか。それゆえ、「生と死の問題」は自身の生き方そのものを「自分で考える」ということである。
武家の精神力をより高めることによって、それがやがて3代将軍足利義満の時代の北山文化・8代将軍足利義政の時代の東山文化に発展していったのではないかと思う。特に東山文化の「わび・さび」の世界観は禅による影響を受けたものである。
中でも古来の宗教である神道や仏教は芸術・文化に深くかかわっており、多彩な、 優美な作品をたくさん産み出し、現代に伝承されています。特に中世には禅宗が社 会・文化に大きな影響を与え、15 世紀後半には、水墨画、石庭、能楽、茶道、武道 等の文化を根底から支えました。その伝統は、今に生きています。
日本人の宗教心の特徴として、「誰もが、仏による絶対無条件の愛(大悲)に包 まれて、この身このまま救われる」という感覚があることを、鈴木大拙は指摘しました。大拙は、その宗教意識を、「日本的霊性」と名づけました。私は、そういう 霊性は、あらゆる日本の宗教の基盤にある と思います。おそらくこのような宗教意識は、未来の地球社会の平和を導く思想にもなりうることでしょう。
竹村牧男, 日本人の宗教生活と仏教, 2015, 『国際井上円了研究』3 (2015):133–144.
2 江戸時代初期
室町幕府が滅びた 1603年〜徳川幕府が滅びる 1868年 までの 265年 が江戸時代(諸説あり)。
ここでは、1603年〜1709年を初期、1709年〜1787年を中期、1787年〜1868年までを後期とした。
初期 | 1603〜1709年 | 初代将軍 | 家康 | 第5代将軍 | 綱吉没 |
中期 | 1709〜1786年 | 第6代将軍 | 家宣 | 第10代将軍 | 家治没 |
後期 | 1787〜1868年 | 第11代将軍 | 家斉 | 第15代将軍 | 慶喜が大政奉還 |
2.1 平均寿命
江戸時代の平均寿命は32歳〜44歳。これは前述の室町時代に比べると、はるかに寿命が延びた。
2.2 災害
江戸時代は大飢饉だけでも5回。洪水が3回、地震にいたっては巨大地震が5回も発生していた。
江戸初期 | 寛永の大飢饉 | 1640年〜1643年 | 飢饉 |
江戸初期 | 宝永大噴火 | 1707年 | 富士山の噴火 |
江戸初期 | 宝永地震 | 1707年 | 蝦夷を除く日本国中、五畿七道に亘る巨大地震 |
江戸初期 | 大谷崩 | 1707年 | 宝永地震によってできた山体崩壊 |
江戸中期 | 享保の大飢饉 | 1731年頃 | 飢饉 |
江戸中期 | 戌の満水 | 1742年 | 千曲川流域で発生した大洪水 |
江戸中期 | 江戸洪水 | 1742年 | 大水害「寛保の洪水・高潮」で江戸が被った被害である。 |
江戸中期 | 寛保の洪水・高潮 | 1742年8月28日 | 近畿・信越・関東の各地方を襲った風水害被害のこと。 |
江戸中期 | 名立崩れ | 1751年 | 越後国頸城郡名立小泊村で発生した地すべり災害 |
江戸中期 | 天明の大飢饉 | 1782年〜1788年 | 飢饉 |
江戸中期 | 元禄関東地震 | 南関東の広い地域に被害をもたらした巨大地震 | |
江戸後期 | シーボルト台風 | 1828年9月17日 | 九州などに大被害をもたらした台風 |
江戸後期 | 天保の大飢饉 | 1833年〜1839年 | 大規模飢饉 |
江戸後期 | 安政東海地震 | 1854年 | 熊野灘・遠州灘沖から駿河湾を震源とする巨大地震 |
江戸後期 | 安政南海地震 | 1854年 | 被害は中部地方から九州地方までの巨大地震 |
江戸後期 | 安政江戸地震 | 1855年 | 関東地方南部[1]で発生したM7クラスの巨大地震 |
江戸後期 | 鳶山崩れ | 1858年4月9日 | 飛越地震により発生した鳶山の山体崩壊 |
2.3 江戸時代の仏教
2.3.1 幕府による統制
本末寺制度・触頭制度・寺請制度によって、幕府が寺を統治・支配し、寺が民衆を統治・支配する仕組みを制度として導入した。
寺檀制度は キリシタンの禁制を徹底させる もので、後に 宗旨人別帳 (しゅうしにんべつちょう)の制度も作られ、戸籍の代わりとして利用された。
幕府は、宗教による精神面での民衆支配の助けを得るためにこれらの宗教政策を行いましたが、 一方で宗教側も世俗権力の保証が得られるため積極的にこれらの政策に荷担します。この幕府との密接な関係は、寺院の経済的安定を保証する一方で、 宗派間の論争や一宗派内での異説の禁止などその活動に大きな制約を加えられることになりました。しかし、そのような制約の中で、教学の振興と戒律の復興といった運動が起きます。
仏教へのいざない (東京大学仏教青年会).
2.3.1.1 本寺制度
それぞれの宗派の本山・末寺の関係を明確にし、無本寺の寺を無くし幕府が統制するための制度。
2.3.1.2 触頭制度
幕府や藩の寺社奉行の下で各宗派ごとに任命された特定の寺院のこと。目的は幕府による寺の統制を図るための制度。
2.3.1.3 寺請制度
幕府が統制するための制度であり、キリシタン信者ではないことを証明するために、庶民が寺の檀家となる。
2.3.1.4 宗門人別改帳
寺請け証文により、宗門人別改帳を作成した。現在の戸籍に相当するもので居住地の変更の際にも使われていた。
2.3.1.5 寺請証文
檀家に対して寺が檀家であることを証明するために寺請証文を発行した。
(4)江戸期の仏教と死
徳川幕府の支配体制を強化するために、寺院勢力を幕藩体制に組み込んだ。そのために、寺院本末制(総本山ー末寺関係)、寺請制度(キリシタンでないという証文を寺から出す)、宗門人別帳(租税
台帳・戸籍簿)及び檀家制(民衆を一定の檀那寺に所属させた)によって、檀那寺に、自己の生死、葬式、来世をゆだねることになった。したがって生死を決定ずけられた寺に、つねに盆暮の付け届け
をしなければならなかった。江戸中期には、寺と民衆の一家が結びついた。
清水徳蔵, 日中の死生観比較考 ー異文化への日中の対応比較ー, 1998
2.3.1.6 宗門檀那請合之掟
現代の葬式仏教の始まりと言われているのが、『宗門檀那請合之掟』と呼ばれているものである。
宗門檀那請合之掟
(註・読み下しと校正及び通し番号付加は筆者、底本は『徳川禁令考』)
(1)一、切支丹之法、死を顧みず、火に入りても焼けず、水に入りても溺れず、身より血を出して死をなすを成仏と建てる故、天下之法度厳密也。実に邪宗なり。之に依って死を軽する者吟味を遂ぐ可き事。
(2)一、切支丹に元附くものは、闥単国より毎月金七厘与え切支丹になし、神国を妨くる事邪法也。此の宗旨に元附くものは、釈迦之法を用いず故に、檀那寺へ檀役を妨げ、仏法の建立を嫌う、依って吟味を遂ぐ可き事。
(3)一、頭檀那成り共、祖師忌・仏忌・盆・彼岸・先祖命日に、絶えて参詣仕らず者は、判形を引き、宗旨役所へ断り、急度吟味を遂ぐ可き事。
(4)一、切支丹・不受不施のもの、先祖之年忌、僧之弔いを請わず、当日は宗門寺へ一通り之志を述べ、内証にて俗人打ち寄り、弔い僧之来る時は、無興にて用いず、依って吟味を遂ぐ可き事。
(5)一、檀那役を勤めず、然る共我意にまかせ、宗門請合之住持人を用いず、宗門寺之用事、身上相応に勤めず、内心邪法を抱きたる、不受不施を建てる、相心得可く事。
(6)一、不受不施之法、何にても宗門寺より申事を受けず、其宗門之祖師、本尊之寺用に施さず、将に亦、他宗之者を受けず施さず、是は邪宗門なり。 人間は天の恩を受けて地に施し、仏の恩を受けて僧に施し、是正法也。依って吟味を遂ぐ可き事。
(7)一、切支丹、悲田宗、不受不施、三宗共に一派なり。 彼尊ぶ所の本尊は牛頭切支广頭祭利仏という。故に十頭大うすと言う、天帝は切支丹本尊之名也。我人此仏を願い奉り、鏡見れば仏面と身ゆ。 宗旨を転ずれば犬と見ゆ。是邪法之鏡なり。一度、此鏡を見るものは、深く牛頭切支丹广頭を信じ、日本を魔国と成す。然りと雖も、宗門吟味の神国故に、一通り宗門寺へ元附き、今日人交に内心不受不施にて、宗門寺へ出入らず。依って吟味を遂ぐ可き事。
(8)一、親代々之宗門に元附き、八宗九宗の内、何之宗旨紛れ之無く共、其子如何様なる勧めにより、心底邪宗に組合やも知らず、宗門寺より吟味を遂ぐ可き事。
(9)一、仏法勧談、講経をなして、檀那役を以て夫々の寺仏用修理建立を勤めさすべし。邪宗邪法事一切せず、世間交わり一通りにて、内心仏法を破り、勤めを用いず。吟味を遂ぐ可き事。
(10)一、死後死骸に頭剃刀を与え戒名を授ける事、是は宗門寺之住持死相を見届けて、邪宗にて之無く段、慥に受け合い之上にて、引導致す可き也。 能々吟味を遂ぐ可き事。
(11)一、天下一統正法に紛れ之無きものには、頭剃刀を加え、宗門受け合い申す可く候。武士は其寺之受け状に証印を加え差し上げ、其外血判成り難きには、証文受け合いを証文に差し出す可き事。
(12)一、先祖之仏事、他寺へ持参致し、法事勧め申す事、堅く禁制。然りと雖も、他国にて死去候時は格別之事、能々吟味を遂ぐ可き事。
(13)一、先祖之仏事、歩行達者成者に参詣仕らず、不沙汰に修行申すもの吟味を遂ぐ可き事。其の者持仏堂備え物、能々吟味を遂ぐ可き事。
(14)一、相果て候時は、一切宗門寺の差し図を蒙り事を修行し、天下の敵万民の怨みは、切支丹、不受不施、悲田宗、馬転連之類を以て、相果て候節は、寺社役者へ相断り、検者を受けて宗門寺の住僧弔い申す可き事。役所へ相断らず弔い申す時は、其の僧之越度、能々吟味を遂ぐ可き事。
右一五ヶ条目、天下之諸寺院宗門受け合い之面々、 此内一箇条も相欠候ては、越度仰せ付け被れ、能々 相守る可きもの也。
慶長十八年癸丑年五月 奉行
日本諸寺院
- 先祖供養を義務付けること
- 宗祖忌・仏忌・盆・彼岸・先祖忌には必ず寺へ参拝するよう義務付けられた
- 参拝しない者には例え檀家総代と言えども「宗門人別改帳」から本人・家族の記載事項が削除された
- 宗門奉行から厳しい吟味を受けるようになっている
- 寺院住職には檀家の身分を保証する代わりに檀家の身分を自由に変更することができる
- 布施が強要された
- 寺院を変更することは厳禁とされた
2.4 死生観の変化に影響を与えたこと
- 地震や洪水により家族や家を失い、生きる希望を見いだせなくなったこと
- 幕府が寺を統治・支配し、寺が民衆を統治・支配する仕組みを制度として導入したこと
- 僧侶の妻帯を幕府が奨励したこと
- 民衆救済のための仏教ではなくなったこと
- 邪宗が徹底的に弾圧を受けたこと
- 神仏合体から神仏分離へ変わったこと
2.5 本居宣長の死生観
宣長にとって, 死んだ後はこうなるといった理屈や工夫 は「無益のこざかしき料簡」であり,仏教や儒教に対しては「皆虚妄にして実にあらず」と言っています。死ねば,妻 子,眷 属,朋 友,家 財万事を捨てざるをえず,ふたたび還来ることあたわず,かの穢なき予美国に行かねばならないゆえに,世の中で死ぬほど悲しいことはないと言っています。
岸英司,日本人の死生観 -その宗教意識から-,頭頸部腫瘍 21(3)489-492,1995,
2.6 江戸時代の死生観
江戸時代になり,日本人の現世主義はそれまでの神・仏への信仰をふきとばしてしまったように思えます。家永三郎氏は「経済的財政を究極の価値とする町人にとって,現世世界を超えた彼岸の浄福の考えられないのは当然である」(『日本道徳思想 史』と述べています。フロイスの『日本史 ・堺市史』によれば永禄年間の堺の商人は宣教師の説教に答えて,「天国に入るためにどうしても財産や俗世の名誉を捨てなければならないのなら,自分らは天国へなど行きたくない」と言ったとのことです。 この時代,日本人の宗教意識は現世主義が強くなり,あたかも非宗教の世界と言 えましょう。
岸英司,日本人の死生観 -その宗教意識から-,頭頸部腫瘍 21(3)489-492,1995,
3 参考文献
丸山久美子, 死生観の心理学的考察, 2004,聖学院大学論叢.
辻本臣哉, 人間学研究論集, 2015, 人間学研究論集.
上田賢治, 日本神話に見る生と死, 東洋学術研究, 通巻115号(27巻2号).
井上克人, 日本人の他界観, 実存思想協会, 1998, 実存思想協会.
清水徳蔵, 日中の死生観比較考 ー異文化への日中の対応比較ー』, 1998,
竹村牧男, 日本人の宗教生活と仏教, 2015, 『国際井上円了研究』3 (2015):133–144.
岸英司,日本人の死生観 -その宗教意識から-,頭頸部腫瘍 21(3)489-492,1995,
竹田恒泰,(2017), 『現代語 古事記』, 学研プラス.
次田真幸,(1998), 『古事記(上) -全三巻-』, 講談社.
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