【日本独特の死生観】仏教伝来以後(明治時代)
目次
1 明治時代
明治時代は、1868年〜1912年までの45年間。
明治維新は、ペリー来航をきっかけに大政奉還までの15年。この後、天皇が京都から東京へ移る。
その後、 版籍奉還 が行われ、各藩の領土や領民の戸籍を天皇に返還させることにより 中央集権化 を図った。
これにより、藩は弱体化し 廃藩置県 が行われた。
1853年 | ペリー来航 |
1867年 | 大政奉還 |
1868年 | 東京遷都 |
1868年〜1869年 | 戊辰戦争 |
1869年 | 版籍奉還 |
1871年 | 廃藩置県 |
1889年 | 大日本国憲法発布 |
1894年 | 日清戦争 |
1904年 | 日露戦争 |
1912年 | 明治天皇崩御 |
1.1 平均寿命
日本人の平均寿命を時代ごとに見ると、 奈良時代や平安時代の平均寿命年齢がおよそ30歳 であったのに対して、鎌倉時代に入ると災害や疫病の影響により平均寿命年齢は24歳となる。 そして、 室町時代では平均寿命年齢は15歳 となり極端に寿命が短くなった。これは、 _天候による食物の不作・一揆・戦国時代が長期に渡ったことが大きな影響を及ぼしている。
そして、明治時代に入ると平均寿命が延びてくる。
社会実情データ図鑑
(グラフ:平均寿命の歴史的推移)より引用.
(明治時代の人口がおよそ3000万人〜3300万人).
1.2 出生率・死亡率
出生率と死亡率の長期推移
出生率の長期推移は、明治以降、大正時代まで上昇傾向が続く。死亡率は、1879年、1886年にコレラが大流行した。
1.3 災害
明治時代に起きた国内の主な津波被害
名称 年月日 マグニチュード 特徴 明治三陸地震 1896年6月15日 8.25 過去最大の38.2メートルの津波。死者約2万2000人
1.4 明治時代の仏教
1.4.1 出来事
1.4.1.1 神仏分離
明治新政府は「王政復古」・「祭政一致」の理想国家を実現するために、天皇家を中心とした統一国家を形成しようと画策する。
それは、歴史的に考えて日本国の誕生は「神」によりすべてを与えられ、神の子としての人間が誕生した『古事記』を見れば、日本という国が神道の国であることは解る。
「神仏分離令」は神と仏が混在しているごちゃまぜを禁止することを目的としたものであるが、この「神仏分離令」が「廃仏毀釈」を進めてしまう。
当時、仏教は、天台宗・浄土宗・浄土真宗・臨済宗・曹洞宗・日蓮宗・時宗があり、それぞれの宗派が時代ごとに様々な問題を起こしており、そこにキリスト教が伝来し、かなり勢力を伸ばしてきた。
元々、日本は「神の国」でありながら、外国の仏教やキリスト教が日本国内で勢力を伸ばすことに危機感を感じた国は、神と仏は別物であり神道純化のために神仏混在を禁じたのである。
そして、「教派神道十三派」を認めて神道を崇拝するようにした。
明治元年(1868年)、明治新政府は 「王政復古」「祭政一致」 の理想実現のため、 神道国教化 の方針を採用し、それまで広く行われてきた神仏習合(神仏混淆)を禁止するため、 神仏分離令 を発した。
神道国教化のため 神仏習合を禁止 する必要があるとしたのは、平田派国学者の影響であった。
政府は、神仏分離令により、 神社と寺院を分離 してそれぞれ独立させ、神社に奉仕していた僧侶には還俗を命じたほか、 神道の神に仏具を供えることや、「御神体」を仏像とすることも禁じた。
神仏分離令は「仏教排斥」を意図したものではなかったが、これをきっかけに全国各地で 廃仏毀釈運動 がおこり、各地の寺院や仏具の破壊が行なわれた。
地方の神官や国学者が扇動し、寺請制度のもとで寺院に反感を持った民衆がこれに加わった。 これにより、歴史的・文化的に価値のある多くの文物が失われた。
新政府は神道国教化の下準備として神仏分離政策を行なったが、明治5年3月14日(1872年4月21日)の神祇省廃止・教部省設置で頓挫した。
これは特に平田派の国学者が主張する復古的な祭政一致の政体の実行が現実的には困難であったからである。
神道の国教化は宣教経験に乏しい神道関係者のみでは難しく、仏教界の協力がなくては遂行できないことは明白であった。
そこで、浄土真宗の島地黙雷の具申をきっかけとして、神祇省は教部省に再編成、教育機関として大教院を設置、教導職には僧侶なども任命されて、神道国教化への神仏共同布教体制ができあがった。
神道国教化には キリスト教排斥の目的 もあったが、西洋諸国は強く反発、信教の自由の保証を求められた。
結果、明治6年(1873年)にはキリスト教に対する禁教令が廃止され、明治8年(1875年)には大教院を閉鎖、明治10年(1877年)には教部省も廃止し、内務省社寺局に縮小され、神道国教化の政策は放棄された。
代わって神道は宗教ではないという見解が採用された。
神仏分離政策は、「文明化」への当時の国民の精神生活の再編の施策の一環として行われたものであり、修験道・陰陽道の廃止を始め、日常の伝統的習俗の禁止と連動するもので、 仏教界のみならず、修験者・陰陽師・世襲神職等、伝統的宗教者が打撃を受けた。
1.4.1.2 廃仏毀釈
廃仏毀釈の考え方は、 江戸時代後期から既に廃仏毀釈の動きがあった。
廃仏毀釈を推し進めることになった 「神仏分離令」 であるが、この「神仏分離令」が何故出されたか?
上述したとおり、仏教宗派による 寺院建立が後を絶たず 、さらに キリスト教の勢力拡大 により危機を感じたこと。そして、江戸時代から続いていた 「檀家制度」 や 『宗門檀那請合之掟』 (参考: 【日本独特の死生観】仏教伝来以後(室町〜江戸初期))により、 多額の布施を強要する など 悪質な寺院 が後を絶たないなど、 仏教の堕落と僧侶の堕落 が甚だしい状況が続いた。
廃仏毀釈(廢佛毀釋、排仏棄釈、はいぶつきしゃく) とは、 仏教寺院・ 仏像・経巻(経文の巻物)を破毀(破棄)し、僧尼など出家者や寺院が受け ていた特権を廃することを指す。
「廃仏」は仏を廃(破壊)し、「毀釈」は、釈迦(釈尊)の教えを壊(毀)すという意味。日本においては一般に、神仏習合を廃して神仏分離を押し進める、明治維新後に発生した一連の動きを指す。
〔明治の仏教〕
明治維新後,仏教を取り巻く状況は変化した。神仏分離と廃仏毀釈によって, 寺院は 影響を受けた。
明治 5(1872)年の 壬申戸籍 によって, 僧侶は身分ではなく職業 となり, 同年には 僧侶の肉食・妻帯・蓄髪を勝手たる とする布告が出された。教団の再編が行わ れ,本山から管長を中心とする組織に変化した。また江戸時代までの伝統的な宗学から, 海外に留学した学僧たちによって近代仏教学が展開していった。仏教啓蒙運動や在家仏 教運動が始まったのもこの時代からの特長である。
引用:宗教年間 平成28年度版
1.4.1.3 教派神道十三派
教派神道(きょうはしんとう)とは、幕末から明治初期に民間で起こり、明治政府によって公認された14の神道系教団の総称。明治9年(1876年)から明治41年(1908年)までに14派が公認されたが、神宮教が明治32年(1899年)に神宮奉賛会となり離脱したため13派となった。この13派を神道十三派(しんとうじゅうさんぱ)と呼ぶ。連合組織として教派神道連合会があり、戦後に神道十三派ではない大本が加盟している。
別称は宗派神道、宗教神道。教祖・創始者がいる点が特徴であり(神道大教はいない)、国家神道、神社神道とは区別される。
Enpedia 教派神道
神道十三派は、黒住教・神道修成派・出雲大社教・扶桑教・実行教・神道大成教・神習教・御嶽教・神道大教・神理教・禊教・金光教・天理教。
(1)神社・神官神職
神社の総数は,明治 12 年から 39 年にかけて 20 万社近くで推移していたが,明治末期に減少, 大正期から昭和 13 年までは 11 万~12 万社で微減傾向であった。神官神職の数は,神社数の増 減に左右されず,12,000 人から微増傾向が続き,明治 33~35 年は 16,000 人を超えた。その後 やや減少し 15,000 人を割り込んだが,大正 3 年から増加傾向となり昭和 13 年には 16,000 人近 くになった。
1.4.1.4 神社合祀令
神社合祀の目的は、神社の数を減らし残った神社に経費を集中させることで一定基準以上の設備・財産を備えさせ、神社の威厳を保たせて、神社の継続的経営を確立させることにあった。また、教派神道は宗教として認めるが、神社は宗教ではなく「国家の宗祀」であるという明治政府の国家原則(宗・政・祭体制[1])に従って、地方公共団体から府県社以下神社に公費の供進を実現させるために、財政が負担できるまでに神社の数を減らすことにもあった。
この政策は内務省神社局が主導したが、同省地方局の関与もあったらしい。というのも、地方局は合祀の目的の一つである地方公共団体からの府県社以下神社への公費供進を認めるのを地方公共団体にさらなる財政負担を求めるものとして消極的だったが、それを認める代わりに地方自治政策の一環としての神社中心説を神社合祀政策に盛り込んだのであった。
神社中心説とは地方の自治は神社を中心に行なわれるべきだという考えのことで、これにより合祀政策に一町村一神社の基準が当てはめられることとなった。神社の氏子区域と行政区画を一致させることで、町村唯一の神社を地域活動の中心にさせようとしたのである。
引用: Wikipedia 神社合祀
神社合祀令は、明治39年に出された合祀令で、このときの神社の数は、20
万社あったと言われており、この神社合祀令により七万社が取り壊された。
中でも三重県、和歌山県の神社の多くは取り壊され、途中経過の段階で三重県で 942社/5,547社、和歌山県は、600社/3700社が取り壊された。
最初、明治三十九年十二月原内相が出せし合祀令は、一町村に一社を標準とせり。ただし地勢および祭祀理由において、特殊の事情あるもの、および特別の由緒書あるものにして維持確実なるものは合祀に及ばず、その特別の由緒とは左の五項なり。
(1)『延喜式』および『六国史』所載の社および創立年代これに準ずべきもの、(2)勅祭社、準勅祭社、(3)皇室の御崇敬ありし神社(行幸、御幸、奉幣、祈願、殿社造営、神封、神領、神宝等の寄進ありし類)、(4)武門、武将、国造、国司、藩主、領主の崇敬ありし社(奉幣、祈願、社殿造営、社領、神宝等の寄進ありし類)、(5)祭神、当該地方に功績また縁故ありし神社。
中略
その結果、去年十二月十九日と今年一月二十日の『読売新聞』によれば、在来の十九万四百社の内より、すでに府県社五、郷社十五、村社五千六百五十二、無格社五万千五百六十六、計五万七千二百三十八社を合併しおわり、目下合併準備中のもの、府県社一、郷社十二、村社三千五百、無格社一万八千九百、計二万二千四百十三社あり。残れる十一万ばかりの神社もなお減ずべき見込み多ければ、本年度より地方官を督励して一層これを整理し、また一方には神社境内にある社地を整理せしむべし、とその筋の意嚮を載せたり。また当局は、合祀によって郷党の信仰心を高め、おびただしく基本金を集め得たる等、その効果著し、と言明する由を記せり。
そもそも全国で合祀励行、官公吏が神社を勦蕩そうとう滅却せる功名高誉とりどりなる中に、伊勢、熊野とて、長寛年中に両神の優劣を勅問ありしほど神威高く、したがって神社の数はなはだ多かり、士民の尊崇もっとも厚かりし三重と和歌山の二県で、由緒古き名社の濫併らんぺい、もっとも酷ひどく行なわれたるぞ珍事なる。すなわち三重県の合併はもっともはなはだしく、昨年六月までに五千五百四十七社を減じて九百四十二社、すなわち在来社数のわずかに七分一ばかり残る。次は和歌山県で、昨年十一月までに三千七百社を六百社、すなわち従前数の六分一ばかりに減じ、今もますます減じおれり。かかる無法の合祀励行によって、果たして当局が言明するごとき好結果を日本国体に及ぼし得たるかと問うに、熊楠らは実際全くこれに反せる悪結果のみを睹みるなり。
1.5 死生観の変化に影響を与えたこと
b.それ以前(明治維新から戦前)の価値観― 国家神道、廃仏毀釈、富 国強兵によって江戸時代の価値をすっかり捨てさり、近代化路線を取って きた。敗戦でそれらがまたしてもすべて崩壊する。国家神道のせいで、古 来からの神道の精神も、本居宣長ともども雲散霧消する。
引用:熊沢一衛, 2008,現代日本人の死生観の形成 ―仏教の役割と提言―,龍谷大学.
1.6 明治時代の死生観
江戸時代までの仏教的価値が無くなると共に神仏分離・廃仏毀釈・神社合祀な
ど国は「王政復古」・「祭政一致」を進めるために多くのものを失った。また、
2 参考文献
丸山久美子, 死生観の心理学的考察, 2004,聖学院大学論叢.
辻本臣哉, 人間学研究論集, 2015, 人間学研究論集.
上田賢治, 日本神話に見る生と死, 東洋学術研究, 通巻115号(27巻2号).
井上克人, 日本人の他界観, 実存思想協会, 1998, 実存思想協会.
清水徳蔵, 日中の死生観比較考 ー異文化への日中の対応比較ー』, 1998,
竹村牧男, 日本人の宗教生活と仏教, 2015, 『国際井上円了研究』3(2015):133–144.
熊沢一衛, 現代日本人の死生観の形成 ―仏教の役割と提言―,2008,龍谷大学.
岸英司,日本人の死生観 -その宗教意識から-,頭頸部腫瘍 21(3)489-492,1995,
竹田恒泰,(2017), 『現代語 古事記』, 学研プラス.
次田真幸,(1998), 『古事記(上) -全三巻-』, 講談社.
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