意識で変わる見える世界
目次
1 はじめに
以前、研究ノートで 感覚 について書いたが、人間が持っている感覚には以下の感覚がある。もう一度、ここにそれぞれの感覚について簡単に記す。
感覚名称 | 概要 |
生命感覚 | 生体のすべてが規則正しく秩序が乱れていないときには感じることができない感覚であり、生体の何かが規則正しく機能していない、あるいは秩序が乱れているときに感じられる感覚である |
自己運動感覚 | 自己運動感覚とは、手足を動かすときに感じ取れる感覚のことを言う。 |
均衡感覚・平衡感覚 | 上下・左右などの方向の区別。 |
臭覚 | 外界の物体(素材)が臭いを出さなければ臭うことはない。この感覚が嗅覚である。 |
味覚 | 物体(素材)を口に入れ、舌で物体(素材)を知覚する。この時に物体(素材)は、どんな素材であるか、どんな影響が生じるかを告げる。 |
視覚 | 視覚は物体(素材)の形状・色を知ることができる。 |
熱感覚 | 体(素材)のもつ内面の熱さ・冷たさを知ることができる。 |
聴覚 | 物体(素材)が響きを発する(振動)ことによってその事物がどのように振動しているかを聴覚により知覚することができる。 |
言語感覚 | 人と意思の疎通を図るときに見いだせる感覚。 |
概念感覚 | 通常の人間生活において最高の感覚とされる |
霊視感覚 | 眉間に二葉の蓮華と呼ばれる器官が、最初の霊的な感覚器官として作られる。 |
霊聴感覚 | 咽頭部には非常に複雑な感覚、十六弁の蓮華である霊聴感覚が形成される。 |
霊的合一感覚 | 心臓部には霊的合一感覚と呼べるような感覚が十二弁の蓮華となって形成される。 |
これらの感覚の中で一般の人間が日常的に使っているものは、上述の「生命感覚」〜「概念感覚」までで「霊視感覚」・「霊聴感覚」・「霊的合一感覚」の 3つの感覚は訓練によって開花させることができる。
ここでは、これらの感覚と意識について簡単の述べたいと思う。特に、仏教との関連についてはじめに述べておきたい。
1.1 感覚
昔から五感ということをよく言われているが、五感どころか上述のとおり私たち人間には様々な感覚があることが解る。
これらの感覚のうち私たち人間は表面的な感覚だけに頼って生きているのではないだろうか? 実は隠れている、或いは、発揮されていない感覚があることに気付くことが大事なことである。
以下では、仏教の「五蘊」(ごうん:感覚を表す能力)を中心に簡単に記す。
1.2 五蘊(陰)
仏教には 五蘊というものがある。人間の肉体と精神を5つの集まりに分け、「色」・「受」・「想」・「行」・「識」 である。
- 「色」:色や形を表すもので物質を表すこと
- 「受」:感じること。肉体的に感じる苦痛や痛み、精神的に感じる心地よい感じや苦痛などを表すこと
- 「想」:イメージのこと。心の中で思った形のあるものをイメージすること
- 「行」:心で思ったこと(意思)の結果が原因となって現れる結果のこと
- 「識」:ものごとを認識すること
これらに「蘊」という漢字を付けて、「色蘊」・「受蘊」・「想蘊」・「行蘊」・「識蘊」を五蘊という。
1.3 十二処
十二の知覚を指す。六根と六境よりなる。
1.3.1 六根
六根とは、人間のもつ能力を表したものであり、この能力によっていろんな刺激を感じ取ることができる。
しかし、ときにこの能力が五欲による執着や拘りにより心を汚す働きをすることがある。仏教ではこの執着を取り除き清らかな状態になることを六根清浄という。
六根 | 概要 |
眼 | 視覚能力 |
耳 | 聴覚能力 |
鼻 | 嗅覚能力 |
舌 | 味覚能力 |
身 | 触覚能力 |
意 | 知覚能力 |
1.3.2 六境
六根をさらに細かく分類・定義したもの。
色 | 青、黄、赤、白、長、短、方、円、高、下、正、不正、雲、煙、塵、霧、影、光、明、闇 |
声 | 苦楽の感覚を発する有情身の発する音とそうでない音、意味を伝える音とそうでない音、および快い音とそうでない音 |
香 | 良い香りと悪い香り、適度な香りとそうでない香り |
味 | 甘さ、酸っぱさ、しおからさ、辛さ、苦さ、渋さ |
触 | 滑らかさ、粗さ、重さ、軽さ、冷たさ、ひもじさ、渇きの7種、および地、水、火、風 |
法 | 五根に対応する境の部分(色・声・香・味・触)を五境、そこに生じる欲を五欲(五塵) |
上述の六根と六境を以下の様にに記したものが十二処。
六根 | 六境 |
眼根 | 色・色境・色処 |
耳根 | 声・声境・声処 |
鼻根 | 香・香境・香処 |
舌根 | 味・味境・味処 |
身根 | 身・身境・身処 |
意根 | 意・意境・意処 |
1.3.3 十八界
「識」は「心」の状態を表す。
六境により正しいものを見ようとする心、あるいは、不正なものを見ようとする心。
この心の状態によって視覚する能力が変わってくる。
眼識 | 視覚する心 |
耳識 | 聴覚する心 |
鼻識 | 嗅覚する心 |
舌識 | 味覚する心 |
身識 | 触覚する心 |
意識 | 知覚する心 |
六境と併せたのが十八界。
眼界 | 色界 | 眼識界 |
耳界 | 声界 | 耳識界 |
鼻界 | 香界 | 鼻識界 |
舌界 | 味界 | 舌識界 |
身界 | 触界 | 身識界 |
意界 | 法界 | 意識界 |
2 意識 と 無意識
感覚をどう捉えるのか? これを意識するかしないかによって感覚というものが変わってくるのである。例えば、二人で同じ風景を見ているのに一人は遠くに船がいることに気付いているのに片方はまったく気付かないことがあるように、同じものを見ていながら気付かないケースは日常多々あることと同じように高次の感覚でものを見る人とそうでない人では見えるものが違うのである。では、何故そのような結果が生じるのか? それは「意識」の問題であり自分自身の感覚を意識しなければ高次の感覚を身に付けることはできないのである。そして次に求められるのが意識に基づいたトレーニングが必要なのである。私はまだ霊視感覚と霊聴感覚までしか身に付けていないが、これらの感覚を身に付けるのに6年の歳月が必要であった。そして、霊的合一感覚を身に付けるのは更に難しい。これらの感覚を身に付けることによってこの現実界がどう言うものなのかをしることができるのである。
3 仮想現実のこと
私たち人間は、眼で見て、耳で聞いて、鼻で匂いや香りを感じて、舌で味を感じて、身で痛みや熱い冷たいを感じたり、意で様々なことを知覚したりすることができる。しかし、これらの 六根こそが迷いであり執着の源 なのである。 目で見たものが真実であると言えるか? 眼でみたものも眼識によって真実とは違うものを見ているのではないか?そもそも、私たちが暮らしているこの地球という現実空間に於いて、見えているものはごく一部であり見えていない、或いは、見ようとしない、更には意識から遠ざけていることによって真実とはかけ離れたところで生活をしているのではないかと言うことである。
このことは、冒頭で述べたとおり、 一般の人間は「概念感覚」以上のことは感覚として認識することができない。 それ故、霊視感覚・霊聴感覚・霊的合一感覚を本来は持っているのにそれを使っていない。そのため、「概念感覚」までの範囲でしかものを見ることができないのである。つまり、 自分自身で感覚能力を制限 しているのである。その 制限される原因の多くは迷いや執着が意識に働いている のである。この迷いや執着こそが霊性を高めることを邪魔しているのである。この現実界に生きている人々に神が求めていることは、一人一人の霊性を高め幸せな人生を送ることこそが最も大切なことである。瞑想して「無」に近づくことにより、神からのメッセージを受け取ることができる。そのメッセージの多くは抽象的な事が多い。このように六根からの刺激を「無」にすることによって霊視感覚・霊聴感覚が働くのである。
私のこれまでの経験からすると、「生の世界」も「死の世界」も実はすごく近いところにあると思う。よく、3次元とか4次元、5次元の話しが出てくるが、4次元・5次元が遠い世界のものではなく、これは私たちの感覚によって知ることが出来る世界なのである。つまり、3次元の世界のことでしか感覚が働かないのであれば3次元のことしか解らない。それ以上の感覚を身に付けることでしか高次の世界を知ることはできないのである。
このようなことから、私たちが日常見ている世界は3次元の世界しか見ていない人が圧倒的に多く、高次元の世界を見ることができる人間は少数である。それ故、中々、高次元の世界の話しは伝わりにくいが、一言で言えば持っている感覚の違いによって見えているものが違うということである。簡単な例を示そう。例えば、空を見たときに何が見えているか?このような単純なことでも人によって見えているものが違うのである。単なる「雲」と答える人もいれば、あれは「積乱雲」と答える人もいるだろう。しかし、トレーニングを受けた高次元を知ることができる人が見たときにはもっと別のものをみているのである。自然界にある 自然そのものとコミュニケーション しているのである。さらに言えば、草木でさえも感情がありコミュニケーションができるのである。こんなことを言うとたいていの人は驚きを隠せない表情を表すが、これが現実であり真実なのである。
したがって、この現実界で 「あなたが見ているものはすべて真実とは異なる」 ということである。 空も海も山も川も草木も岩もすべてが生命 なのである。 自然界に生きるすべてに生命があるのである。そして、 真実とは何か? それを知ることは あなたの人生を大きく変える ことでもあるのである。 現実ばかりに眼を向けていると現実の中でしか生きていくことができないばかりでなく物事に執着する結果を生み、それは決して幸せな人生を送ることはできない。 仏教では五欲* といい、*①食欲、②色欲、③睡眠欲、④財欲、⑤権力欲を五欲* というが、食欲は身体を不調和にさせ、色欲は情欲や邪欲・性欲により災いを起こし、睡眠欲は勤勉意欲を無くし、財欲は物欲を増長させ争いを生じ、権力欲は見栄や支配を増長させる。これらの 五欲こそが人間の平常心を失うものなのである。そして、この五欲に囚われることが執着に繋がることになり不幸な結果が生じるのである。さらに仏教では 煩悩 というのがあり、これは108の煩悩があるが、代表的なものとして __① 貪とん =むさぼりの事、② 瞋しん =怒りの事、③ 癡ち =無知の事、④ 見けん =無知の為に起こる間違った見解の事、⑤ 疑ぎ =仏教に対する疑惑。常に自分が正しいと思い、他の意見・見解等を受け入れない事、 ⑥ 慢まん =おごりたかぶり、 傲慢ごうまん ・ 増上慢ぞうじょうまん ・ 過慢かまん ・ 我慢がまん ・ 卑慢ひまん ・ 邪慢じゃまん 等の事である。 これらの煩悩が人間を駄目にする源でもあるのである。
このように愚かな行いを続けている限り高次の感覚を身に付けることはできないのである。故に、このような 五欲や煩悩を持ち続けている限り「真実の世界」に気付くことはできない のである。
4 ホームページについて
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